世界の中心でHateを叫ぶ

「キライだと言えない社会の淵で」

古き良き悪しきツワモノども。

いやーなんていうか自分みたいに芸能ニュースとか普段興味ない人間でも

 

これだけ毎日不倫だの独立だの解散だの脱退だの謝罪だの騒がれてれば思いますよ。

 

ゲーノー界もやっぱり会社なんだねって。

 

それもかなりブラックな古き良き企業体質の典型だなって。

 

 

 

お詫びの形もお詫びする面々も、

 

誰に向かって謝ればいいのかわからないまま謝らされてる姿とか。

 

常識や良識なんて通じるのは一部優良企業だけですよ、皆さん。

 

 

 

世の大半は誰かが泣けば済むという常識で成り立ってる。

 

もちろんそこに自分という選択肢は含まない前提でね。

 

 

 

誰がゲスで誰が正しいかなんてどうでもいい。

 

どんな話題も所詮は他人の庭。

 

興味を持っても真似したくなっても、そこだけは忘れないでいたい。

 

 

 

なんて思った自称良識ある一市民でした(笑)

能力の限界と満たされた人生とやら。

雪に悩まされていつもの倍時間をかけて出勤したらこの体たらくか。

 

いつもながら同僚(主に後輩)の仕事ぶりには悩まされる。

 

 

 

世代的なコミュニケーション不足や感情の乏しさなんて

 

今さらどうということはないが(諦念である)、

 

頼んだ仕事を平気で「忘れてました」と言える神経は理解を通り越して呆けた。

 

 

 

社会人としてのなんたらではなく、ただ意識がないんだろうなと思う。

 

責任感やプレッシャーというのは自分に意識があって初めて感じるものだ。

 

空気と同じでそこにあることを知らなければ存在しないも同じ。

 

無意識ゆえの意識の欠如、これはどうしようもない。

 

 

 

自分が人より大変な思いをしてきているなんて言うつもりはない。

 

一人暮らしをして、社会に出て、人並に揉まれて歳を重ねてきただけのことだ。

 

上を見ればキリがないくらい大変な思いをしてる奴もいれば、

 

この歳でそんな気楽でいいんだという生き方をしている奴ももちろんいる。

 

それが平等じゃないことがそもそもの社会の成り立ちなんだろう。

 

 

 

鳶が鷹を生まないように、親の教育を越えられる子どもなんていない。

 

子どもは教育の成果物であって天才は天才たる所以がどこかにある。

 

努力をしない天才は努力をしない代わりに他の何かを研ぎ澄ませているし、

 

努力をしない凡才は凡才以下で人生を送るだけだ。

 

 

 

何も成功して長生きした方がいいとか

 

名声を得ることを生き甲斐にする必要もない。

 

それは当人がどこに自己の満足感を置くかの違いなだけで

 

人生そのものを全うできるかといえば結局は誰にもわからないのだろう。

 

 

 

汚点を残したと思えば一生尻拭いをする必要もあるかもしれない。

 

それも一つの生き方だし、全く違うステージに行けば汚点すら存在しなくなる。

 

 

 

焼かれて灰になる前に思い残すことがあろうがなかろうが、人は勝手に死ぬ。

 

そのために悔いなく今日を生きろ、明日を生きろなんて文言すら、

 

本当は価値がないことなんてみんな知ってる。

 

 

 

皆が個人個人の、究極の自己満足を得るために人生なんてあるようなものだ。

今さら論じられる正義。

廃棄カツの転売や悲惨なバス事故。

 

識者やコメンテーター(そもそも定義が曖昧な連中)は嘆く。

 

企業の倫理観とやらを。

 

 

 

なにか事故が起こったりネットで騒がれたりするたびに

 

特定の業種に対して腐敗した現状がことごとく叫ばれ、

 

以前からの組織体質とさもありなんで語られる。

 

 

 

オリンピックの競技場選定のときにも思ったけど、

 

こういう風潮ってどうにもならないんだろうなと一市民は思う。

 

 

 

企業(もしくは組織)がどんな目的であれ運営の継続を図るなら、

 

組織は細分化と効率化を繰り返しながら最後は採算性に行きつく。

 

これは大企業や中小に限らずスケールが違うだけの話で、

 

結局誰が痛い目を見るかっていうと逆らえない立場の末端になることは自明の理。

 

そう、下請けやサービスの窓口になる下流の人間だ。

 

 

 

特にその中でも末端の末端である社員(もしくは非正規雇用)は

 

サービス残業や休日出勤も言うに及ばず、

 

使われてナンボで交換が利くもんだと位置付けられている。

 

 

 

誰が悪いとか時代が悪いとか言うつもりはない。

 

いつの時代でもどんな国でも人が集まり利便を追求すればどこかに歪みが生まれる。

 

誰だって自分の痛みは最小限に抑えたいし得られるものは最大限に手に入れたい。

 

結局は大量消費・大量酷使の果てに当然招かれた結果だ。

 

 

 

助け合いなんてお綺麗なスローガンは歌われるもので叶えるものじゃない。

 

一度得ることを覚えた人間が今さら持たざる者になんか戻れる道理はない。

 

神や天災から容赦なく奪われて初めて正義なんて存在しないことに気づく。

 

正しいことも正しくないことも、「不幸な事故」の一言で顔写真まで付けられてメディアから片づけられてしまうのだ。

罪悪感について。

いつもなにかに急かされて生きているつもりはない。

 

それでも、人を待たせることにとてつもない罪悪感がある。

 

 

 

何年も一緒に仕事してる後輩に対してもそう。

 

家族(しかも子ども)に対してまでそんな瞬間がある。

 

 

 

早く仕上げて次の仕事の指示を出さなくては。

 

早く帰って今日の話を聞いてあげなくては。

 

多かれ少なかれ皆そうなのだろうが、やっぱり自分は多少人よりそういう感情が多いなと思ってきた。

 

 

 

目下や目上といった関係に関わらず、

 

特に人を待たせる・人に何かを頼むということに対して異常に罪悪感を感じる。

 

彼らに頼むくらいなら自分でやってしまおうとか

 

彼らが遅くなるくらいなら自分が居残った方がマシだとか

 

そういったことは日常茶飯事だ。

 

 

 

一人暮らしだと感じなかったがやはり家族がいると

 

自分が勝手に感じているだけだとわかっていてもときどきその息苦しさにハッとすることがある。

 

 

 

なんだろ、よくある幼児体験?

失はれる物語

テレビやスマホをつければ知りたくもない不幸な話やいたたまれない話を見聞きすることがある。



自分の人生において実際に関わる人々のことしか考えなくてよかったら、

それもある意味幸せなことかもしれない。



でも私たちは日々変わりゆく世の中を受け入れて、

もしくは受け入れられながら前には戻れない時間に流されて生きている。



例えば身近な人が亡くなったとき、

人はその想い出に少なからず涙したり

大事な人のことを考える瞬間があるかもしれない。



共に時間を過ごす相手がいれば、

その相手より自分が先に旅立つか見送る方になるかはわからない。



でもどちらかにしかならないのだ。

二人同時に旅立つことは恐らく可能性として低い。

自分が悲しむか悲しまれるか、

生きているうちに選ぶことができるのは稀だろう。



生き死にに正当性も理不尽もない。

自殺だろうが他殺だろうが病死だろうが老衰だろうが

それは等しく一つの終焉だ。



来世があろうがなかろうが、

人が人として歩んだ軌跡は一旦幕を閉じる。



そしてその離別は何よりも、

息を続ける私たちに何らかの変化をもたらさずにはいないだろう。

失はれる物語 (角川文庫)

失はれる物語 (角川文庫)

偏見と慈愛に満ちた美しき人生。

父親がそうだったけど、自分ももれなく賭け事全般が苦手だ。

 

よく解釈すれば無駄なことをしないし、悪く言えば冒険心が全くない。

 

 

 

この歳まで宝くじはおろかパチンコすらやったことがないと言うと大概驚かれる。

(だからわざわざ口外しない)

 

昔実家の近くにパチンコ屋があって、通園や通学の折に毎日通った。

 

田舎にしては比較的大きくて毎日ピカピカ光っててたくさんの大人が出入りしてて、

 

とりあえず子供心に大人が遊ぶものなんだという認識だけはあった。

 

 

 

それでも父親がわざわざ行ったことを見たことも聞いたこともないし、

 

ウチには無縁な場所だと無意識に思っていたのかもしれない。

 

自分が成人しても実家を出てもそれなりに大きなチェーン店を見ても

 

全く興味がわかないしわざわざ近づく気にもならない。

 

 

 

それでも平日であれ週末であれ祝祭日であれGWも正月もあれだけ流行ってるのを見ると、

 

世間一般の大人から見たらそうとう楽しい娯楽なんだろうし倦厭してる自分が少数派なんだろうくらいはわかる。

 

でも倦厭どころかまず興味がないんだけど(笑)

 

 

 

あんなのにばっかり金使っていい大人がバカだとか

 

休日に家族を放っておいてまで行くとか信じられないと言えればまだ楽なのかもしれない。

 

でもそういうのってただ無知なだけの優越感に浸りたいだけだと思う。

 

 

 

賭け事全般に限らず離婚や破産やその他もろもろの不幸って、

 

無縁な人にとっては一生無縁な世界だ。

 

そこをわからないとかバカみたいだと断じるのはとても簡単で、

 

自分以外の世界を認めない人は世代に関係なく大勢いる。

 

 

 

自分の価値観が基本でありそれ以外は価値がないとか、

 

あんな楽しいことを知らないとか(結婚や出産とかもね)、

 

とりあえず受け入れる姿勢を持たない人はやっぱり自分を守りたいんだろうなと思う。

 

 

 

他人の価値観でいい悪いと選別されたものを受け入れることはとても勇気がいる。

 

無知だった自分を認めて(非があるわけじゃない)

 

理解まではできなくても存在を否定しないだけでちょびっとだけ視野が広がる気がする。

 

 

 

壁って壊すのは簡単だけど作るのって意外と難しいんだよ。

 

ザ・ゴールデン・エイジ・オブ・グロテスク

ザ・ゴールデン・エイジ・オブ・グロテスク

 

 

 

 

国民的解散とジャパネットがもたらしたもの。

はい、言うまでもなく国民的アイドルグループとやらの解散(独立?)話です。

 

昨夜テレビつけたら報ステやZEROまでトップニュースがこれだよ。

 

ありえない…

 

 

 

ボウイが亡くなった話ならまだ分かるよ。

 

でもアイドルグループの解散だよ? しかもまだ噂の域を出ないんだよ?

 

いくらなんでも報道番組がやることじゃないでしょ。

 

芸能ニュースの頭がいいとこだよ。

 

 

 

これに限らずやっぱテレビってなんか大事なことを忘れてるのか

 

意図的にわからないように仕向けてるのかなと勘繰りたくもなる。

 

たとえばかなり国民の反対が強そうな法案を通した日とかね。

 

まぁ笑えないけど。

 

 

 

正論や意思表示の仕方って確かに昔より多種多様になったんだとは思う。

 

何が正しいか何が間違ってるか、果たしてその情報に価値はあるかどうかも。

 

メディアが情報発信するより個人でもそれを見た人がツイートすりゃ

 

確かに伝播は早いかもしれない。

 

ただその精度は怪しいものになるし、明確な根拠も見えないってのは事実。

 

 

 

最近自分がどうしてもメディア否定型にハマってるのは確かなんだけど、

 

それも初めから否定してるわけじゃなくて実際は誰かが作った伝達の方法の一つだと考えてる。

 

正しいことを正しい手段で得る方法だとまず考えていない。

 

情報の伝達を職業としている企業なり集団がその技術を駆使して、

 

より多くの人間に伝えることを行っている。

 

それ自体は罪に問われるものでもなんでもない。

 

 

 

結局は個人が写真付きでツイートしようがテレビで古館さんが説明しようが平等に聞き取れるものであって、

 

どちらが正しいか正しくないかなんて自分で選ぶしかない。

 

火事が起こって視聴者が撮影してそれをテレビ局が流す時代だよ?

 

自分のスマホで見るのと何が違う?

 

御大層なテレビさんの解説が加わることでなまじ解釈の方向性がくっついてくるだけだよ。

 

 

 

ジャパネットは安い家電を売ってるわけじゃないし否定する人もいるじゃん。

 

そんなこと、社員ならとっくにわかってるってば(事実)

 

これだけ有象無象の商品が立ち並んでぶっちゃけ大した差もない中から「選択する」という作業を

 

同じ使用者の目線で選択してわかりやすい点だけに絞って解説し、

 

かつ購入方法まで個人個人が都合いいように選ぶことができ、

 

使い方わからなかったら電話して聞けばいい(しかもフリーコール)。

 

 

 

電気屋行って最新製品や型落ちで安くなったものを比べながらお財布の中身と相談して、

 

いざ購入したらしたで使い方わからなくても電気屋に持ってく人がいるか?

 

メーカーのコールセンターに相談してくださいが関の山だろ。

 

 

 

これだけ無数の情報や選択肢が与えられてる中で(不必要なものの方が多い)

 

個人の能力や時間を浪費することなく少なくもぼったくりじゃない金額で

 

型落ちじゃない商品を素直に選び取ることができる安心感。

 

 

 

目に見えないものに対価が払えない人は選ばなければいい。

 

でもそこに間違いなく価値があるからあそこは伸びたんだろ。

 

 

 

何が正しくて何が正しくないか、他人に胸張って主張できる人はすればいい。

 

ただそれは全て自己満足だってことをきちんと自覚してればね。

 

 

ジャパネットからなぜ買いたくなるのか?

ジャパネットからなぜ買いたくなるのか?