世界の中心でHateを叫ぶ

「キライだと言えない社会の淵で」

回転するセカイ。

なにかを嫌うこと、否定することは本来一定のエネルギーを必要とするものだと思う。

 

さらにそれを他人に訴えようとするなら否定するだけの理屈なり理由がいる。

 

でも簡単に相手を否定しようと思えばそこに労苦はない。

 

「生理的にキライ」だけでいいのだ。

 

 

 

今年に入ってから様々なニュースが流れた。

 

噂から派生したものもあれば誰しも知りえなかった事実もあり、

 

知りたかったかと言われればそうでもないが

 

やはりこれだけ騒がれるのだから人間好奇心というものは強いのだなと思う。

 

 

 

他人の動静というものは身近にいればそれは気になるものだ。

 

テレビに映る芸能人とはわけが違う。

 

興味は持てたとしても自分とは生活環境がかけ離れているし、

 

現実の生活で顔を合わせることもない。

 

 

 

でも顔を合わせる程度に近くにいたとして、

 

さらに住まいや家族関係まで知りえるような仲であれば

 

気になるを通り越して比較して見てしまうのが人間の常であろう。

 

 

 

同年代である、同性である、未婚・既婚であると言った様々なファクターから

 

人は人を一定の場所に位置付ける。

 

自分より高いか低いか、明るいか暗いか、その判断基準は様々であろう。

 

 

 

でも他人の目から見て不幸に見える人が、本人は幸せだなんてことはないと思う。

 

小説やドラマであればあり得る話かもしれないが、

 

目や顔を合わせて感じる雰囲気というものはやっぱり誤魔化しようがない。

 

不幸な人はどこかが綻びて見えるし、

 

充実した幸福そうな人は見た目だけでも明るいものを感じ取るのが人間だ。

 

 

 

そこに羨望や侮蔑の感情が起こったり、

 

自分はそうではないと考えるのも人間らしいと思う。

 

オンリーワンが全て正しいというわけではない。

 

交わることがないことがわかっているからこそ人は人を求め、

 

互いに違うとわかっている価値観を享受し受け入れる努力ができる生き物だ。

 

普遍的だけどそう思わないと悲しい。

 

 

 

誰かの笑顔が他の誰かの不幸を招くことなんて、

 

そうはないと思うのだ。